森博嗣『φは壊れたね』考察

Φは壊れたね (講談社ノベルス)φは壊れたね (講談社文庫)


 ごく一部分についてだけ。


!!!ネタバレあり!!!



 謎は密室。トリックは、「死体が発見されたと思われた時、実際には被害者は生きていた」というもの。被害者の死亡推定時刻を誤認させるよくあるパターン。本作の場合、密室を破り中に入った発見者が発見時に殺害したというものである。特別な目新しさはない。


 だがミステリの魅力は「トリック」のみならず、「論理性」にもある。
 「○○が犯人である」と主張するからには根拠が必要なのは当然だが、読者は探偵が「なぜ気付いたか」「どこで気付いたか」という「論理的思考」に感心したり驚いたりしたいものだ。
 したがって、論理的根拠がなかったり不足しているような作品ではたとえ伏線を回収し辻褄があっていて犯人が犯行を認めていたとしてもいまいちスッキリしない。探偵に感心できない。面白くないものとなる。
 いまパッと思いつくものならたとえば、二階堂黎人『聖アウスラ修道院の惨劇』や米澤穂信のいくつかの作品がそうだった。単に解決に必要な情報が出揃った時点で探偵が「わかった!」と叫び、その情報を結びつけた「解決編」が繰り広げられるわけだが、それだけでは「そのようなストーリーが考えられる」という以上の意味を持たない。それでは探偵がエスパーに見えてしまう。
 本作の「論理性」はどうか。
 まず『発見者が、「銀色のナイフ」という通常ではありえない、芝居がかった言い回しをした』ことが探偵が仮説を組むに至るきっかけとなっている。ここは良い。その言い回しが不自然なことには首肯できる。
 そしてそこから、「発見者は演技をしているのでは?」>「実はその時ナイフはなかったのでは?」>「被害者も共犯なのでは?」>「被害者はドアを開けた時にはまだ生きていたのでは?」と展開されるが、その辺りの推論に根拠はなく、説得力も十分とは言い難い。本作では密室という状況故に他に考えられる可能性がなく、また、探偵自身が「単なる想像」「そう仮定すれば、僕が聞いた情報だけですが、状況の説明を合理的につけることができる、というだけの話です〜(略)」と論理性の不足を認めているため、これがダメだと即座に切り捨てられるほどではないが、それでも、新しい・優れているとは言い難い。




 では本作は何の新しさもない面白味のない作品かというとそうではなく、本作の面白さは「トリック」でも「論理性」でもない他の部分、「手掛かりの際どさ」にあるのではないかというのが本題である。


 ミステリでは作中、探偵が解決に至るための「ヒント」や「手掛かり」が存在する。それは同時に読者に対してのヒントでもあるのだが、そのヒントで読者が真相を看破できてはいけない。という点が難しいところである。そのヒントで真相が看破されてしまうと、トリックの出来が良く論理に矛盾がなくても「簡単すぎてつまらない」と言われすべてが台無しになってしまうし、かと言ってヒントが難しかったり隠され過ぎてたりすると、読者は理不尽さを感じ興醒めする。
 さて、本作で探偵が仮説なりにも真相を指摘するに至るきっかけとなったのは先にも挙げた「銀色のナイフ」という不自然な言い回しだ。
 このヒントはどうだろう。


 話を少し変える。
 森博嗣の熱心な読者には周知の事実だろうが、森博嗣はリアリティのある人物描写や会話にこだわりを持つ作家である。
 小説を書き始めた頃は会話の「間」を『……』の数で表現しようとしていたため、それを編集者に「多すぎる」と指摘されたというエピソードがあるし、今でも会話には「えぇっと」や「そのぅ」といった冗長とも思える間投詞が多いし、それ以上に読点(「、」)も多い。
 エッセイの類の自著においては「小説の登場人物の不自然な台詞回し」にも言及している。
 そして記憶が正しければ、「小説の登場人物の台詞は説明的だったりして不自然だが、読者はそうした不自然な会話に慣れているので逆に不自然だと思わない」という主張があったように思う(適当)。


 話を戻そう。
 「銀色のナイフ」という不自然な台詞回し、自分が実際にこんなシーンに出くわしたら確実におかしいと気付くだろう。しかし森先生は「小説ならばぎりぎり気付かれない」と判断したのではないか。
 つまり、森博嗣は「『不自然な言い回し』を手掛かりにするけど読者は普段から小説の不自然な言い回しに慣れてるから気付かないよね」と小説慣れした読者を嘲笑うかのように堂々と、少々簡単そうにも見えるこのヒントを仕掛けたのではないだろうか。
 読者が「小説の不自然さ」に慣らされていることを利用するという少々メタなやり方でヒントの難度を上げているのである。「芝居がかった台詞の不自然さ」を「小説」という芝居の中に置くことで隠したのだ。
 結果的にこのヒントは簡単すぎず難しすぎず、いい塩梅になっていると思うのだがどうだろう。


 もちろんこれは仮説にすぎないが、もしこうした「小説が作り物であること」を利用した見せ方を意識的にやっていたのだとすれば、それは十分に目新しく、面白い点だと言えるのではないだろうか。
 「小説に映像がないこと」「小説が小説であること」を利用した叙述トリックや作中作は多いが、これは少し違ったパターンだろう。