物語分析とかについて思うこと 1

キネ旬総研エンタメ叢書 「おもしろい」映画と「つまらない」映画の見分け方


 『「おもしろい」映画と「つまらない」映画の見分け方』という本を読んで色々思うところがあったので記しておく。本書は、「起承転結」「序破急」などすべての面白い物語に必要だと言われている要素をさらに細かく分類・説明した脚本術とか物語論的な内容になっている、ややタイトル詐欺気味の本である。


 まず読んでいて感じたのは、「非常に文系的な内容であり、学問と呼べるほどには昇華されていないな」というものである。
 「物語」という数学のように割りきれるわけではないものを対象に「研究(と著者は言っている)」したわけだから文系的になるのは仕方のないところだろうとは思うが、体系的にまとめてあるわりには精神分析めいていて、いま一つ論理性に欠けている印象を受けた。
 ただこれは、これまでに読んだ同じような本に対しても同様に抱いた感情であり、特別この本がダメだというつもりはない。ここから書くことも特別この本のみに対して矛先を向けたものではない。


 じゃあどの辺に納得のいかないものを感じ、この文章を書くに至ったのか。一つずつ挙げていく。



  • 物語の主人公は誰か

 この手の本には「主人公」「敵対者」「賢者」「協力者」など、物語を創る上で必要となってくるキャラクターの役割が列挙されることが多いが、この手の本にかかわらず、


 「物語の主人公は誰か」


 というのはしばしばなされる議論である。
 本書では、『「おもしろい」作品は主人公がはっきり見える』と言っており、『本編中で「変化」するのが主人公』『映画『悪人』の主人公は逃亡カップルではなく被害者の父』と言っている。
 映画『悪人』は見てないのだが、『変化・成長を果たすのが主人公』とする定義はそれでもいいと思うし、面白い作品ほど主役がハッキリしているというのも例外はあるにせよそうなのだろうと思う。思うが、こうやって物語作品を学問的に扱っているわりには定義が曖昧で不十分な印象を受け、やや不満である。
 なぜなら数多くの作品に対してある程度の理解と納得を得ながら「主人公をハッキリさせる」のはそう簡単にはいかないと思うからだ。


 たとえば、『ドラえもん』の主人公は「ドラえもん」ではなく「のび太」。『天才バカボン』の主人公は「バカボンのパパ」。これはいい。が、それを論理的に説明するとなると難しそうだ。「のび太」は「成長を果たす人物」というのが当て嵌まる。では「バカボンのパパ」は?
 そもそも『天才バカボン』、当初は「バカボン」を主人公に作られたものだ。じゃあどこで「バカボンのパパ」が主役になったのか。作者や監督が「こいつ主人公!」と言ったらそうなるのか。『ドラゴンボール』は「悟飯」への主人公シフトに失敗したと言われているし。「登場時間が長かったり視点人物であったりすれば主人公」というわけでもないだろう。
 『ポケットモンスター』は「サトシ」が主人公なのだろうか。ポケットモンスターと心を通わせて云々かんぬんという内容だから「サトシとピカチュウ」が主人公なのだろうか。
 群像劇的な作品だとどうか。『サマーウォーズ』の主人公はあの陣内一族全員なのか、健二・夏希・カズマの三人なのか、それとも健二だけなのか。
 本書でも触れられている『魔法少女まどか☆マギカ』に関しての考察は諸説紛々で、「着地に成功した・してない」という見解はそれなりに分かれているように思うが、本書が『まどマギ』の真の主人公は「ほむら」である。としているのに対し、『まどマギ』は着地に失敗したから「ほむら」が主人公のように見えるだけ。みたいな意見もある(http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/column154.htm)。
 大塚英志は自書において『木更津キャッツアイ』は「ぶっさん(岡田准一)」と「うっちー(岡田義徳)」のダブル岡田が主人公で、「うっちー(岡田義徳)」は影の主役なのだとか言ってた気がするが、こういう『ダブル主人公』とか『影の主役』とか『真の主人公』『第二の主人公』みたいな概念が出てきて「普通は一人」のイメージが強い主人公象が複雑化するとさらに混乱する。


 こんなふうに考えだすと疑問はつきないし、そもそも物は言い様というか、したり顔で良いこと言おうとする風香さん(『よつばと!』)のごとく「一人一人が主人公なんだよ!」とか言っちゃえそうな感じであるし、そんな適当な主張にだって口の立つ人間なら一理も二理も与えられるだろう。


 もちろん「自分はこう思う」という話だけなら千差万別人それぞれで構わないのだろうが、その意見が「個人の好みや事情などを入れていない客観的判断だ」と言うのならばそこにはその人なりの定義があり、その定義に乗っ取れば他の人が判断しても同じ結果になるはずである。まして本書のようにある程度物語作品を学問的に分析していこうという姿勢で書かれたものであれば「誰が主人公か」というその判断は読者にもできるものであるべきだ。
 でなければ結局、上で述べたように主張者の匙加減一つではないか。
 ところがその点において十分だと感じた本を見たことがない。これが、物語分析系の本に対して抱く腑に落ちない点の一つである。
 本当に「こういう人が主人公」という確固たる定義が著者の中でされているのならそれは他のほとんどの作品に対しても適用できるはずである。したがって、作者が「この作品の主人公は○○。なぜなら〜」と納得させるにとどまらず、読者が「じゃあこの作品の主人公は〜」と迷わず判断できその答えが多数の他者と同じになるようなチェックシートやチャートがあるべきだと思うのだ。


 結局、誰が「主人公」で誰が「敵」で、誰が「賢者」で「協力者」で……みたいなものはすべて判断が難しいということだ。
 現在出回っている脚本術系の本の精度なら、それを参考に物語を作った作者と、同じ本を参考に読み解いた読者の見解が異なる可能性だって少なくないのではないか。


 長くなりそうなので続きは次にまわすけど、たぶん言うことは同じ。
 

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 [補足]


 ここまで書いておいてなんだが、結構無理なことを言っているとは思う。
 でもこんなの人それぞれ解釈次第で変わるだろうと不満を感じているのは事実だし、素人にも定義できるように書かれた本を見たことがないのも事実だ。ほとんどの本は「このキャラのタイプは「○○」で〜」と著者が一方的に判別しているに過ぎない。言い分に納得はできるけど、俺の判断とお前の判断、違ってる可能性大いにあるよねっていう。


 でも「物語学」みたいなものそれ自体の歴史が浅いのだろうから仕方ない気もする。「面白いけど技術書・学術書としては不十分」みたいな感想はよく見るけど、こういうのを踏み台としていけばいいのだろうし。まだそんな段階ってだけで。


 そもそも、「こういった解釈は作品ごとにあるべきであり一律に判断すべきではない」って主張もありそうだ。




 余談だが、「敵」は誰か。という判断も難しい。
 かならずしも敵対している相手が敵とは限らない。
 たとえば、主人公に対して優しく接してくる相手と厳しく接してくる相手がいた場合、優しい人間が主人公の成長の妨げになっていたとしたらそれが主人公の仲間のように描かれていてもテーマ的には「敵」だと言えてしまう。「ドラえもんがいるからのび太は成長できないんだよ」理論。
 また、「正しくないのが敵なのか」というとそれも違っていて、「よく聞くと相手方の主張の方が正しい」とか「正義のために戦っているはずの自分が悪者だった」みたいなこともあって難しい。「敵は、誰しもが自身の胸の内に持つ弱き心なのです!」とか何でもありの様相。