2012年吐き始め

  • 年の終わり頃から年明けにかけて妙にやる気が出る。夏休み前の「さっさと宿題終わらせて計画的に充実した一月を過ごそう」の心境だ。なんかこう一年のまとめとか抱負とか語りがちで、むやみやたらと目標や計画を立てたくなる。人というのは俺に限らず義務が嫌いなはずなのに、どうしてこうも目標を立てたがるんだろう。これが向上心というやつか。
  • 子どもっぽいかもしれないけれど、マンガやアニメに影響されて何かを買ったり始めたりということはあると思う。聖地巡礼と呼ばれる行為はその種の行為の一例でもあるだろうし、俺の場合は『ゆるゆり』を見てハーゲンダッツのラムレーズンを買ってみたりした。うん、うまい。こういうことで得られる満足感というのもある。いつもと違う行動をするということもあり退屈な毎日に刺激を与える結果になってもいるだろう。だが、半額弁当を買った時のこの「トレースできてない感」はなんだろう。べつに半額弁当なんて以前から買っていたもので影響されて買っているわけではないし、味が特別どうというわけでもないし、第一誰かと争うようなことなんてないし……でもこれってあのアニメで描かれていたものと同じものなんだよな、う〜ん……みたいな。いや、わかってる。あのアニメのような体験をしたかったならスーパーではなくバーゲンかコミケにでも行くべきなんだ。したいわけじゃないけど。
  • 考えてみれば当たり前のことなんだけど、「面白い」ということを表現するのには「面白い」という言葉一つしかなく、その「レベル」を表現しようとすると、「すげー面白い」とか「まあまあ面白い」とか修飾しなきゃいけない。でもいつもいつも律儀にそんなことはしない。そうすると「どのくらい」が相手の主観に委ねられることになり誤解に繋がる。新アニメが始まったばかりのこの時期、ニコニコでアニメ見てると終わりの部分で「面白かった」「これのどこが面白いんだよ」のやり取りを見ることがあるが、両者の「面白い」レベルは同期がとれているのか疑問だ。一方は軽い気持ちで「(思ったより)面白かった」と言っているかもしれないし、一方は「これが(ハンター×ハンター並に)面白い? マジで言ってんの?」かもしれない。たしかに自分の評価と異なる評価は気持ち悪いものだが、相手の言葉にどれほどの可能性幅があるかを考えてみると苛つかないで済むかもしれない。

             

  • 森博嗣先生の本を読み、「「楽しさ」は自分で見つけたり作ったりするものなのに、今の世の中は「楽しさ」が手軽に楽しめるようパッケージングされ商品になっている。たとえばゲームは面白いがすぐに飽きてしまう。これがゲームという「楽しさ」をパッケージングした商品の限界なのだろう。さて、ゲームを捨て町に出よう」的な主張をしている人を見かけたが、そりゃゲームの限界じゃなくてあなたの限界だろうよ。たしかにゲームはルールが設定されているがその枠外に何かを見付けて遊ぶことだってできる。そういう楽しさ・面白さ・発見があるからこそ他人のプレイするTASやRTA、実況に需要があるのではないか。そもそも森先生は「工作パック」のような「楽しさパッケージング商品」で安易にそのものの本質を解った気になり時間をかけねば解らない楽しさを見過ごしていることに苦言を呈しているのであって、仮にゲームが「楽しさパッケージング商品」だったとしてもゲームをやめて他のことをしろとは言ってないはずだ。むしろ森先生の文脈なら「もっと深くゲームをやれ」となるのではないだろうか。