「落とせよ……」って思い始めてきた。

 『未確認で進行形』の感想で書こうとしてたが、長くなりそうなので別に書く。


 『未確認』については、「最近は日常系が豊穣だなぁ」という感想と、「なんかちょっと物足りないなぁ」という感想を持った。
 「癒し」てはくれるんだけど、なんかそれ以上のものがない。これは贅沢な不満であって、作品自体は気に入ってるし、癒してくれるだけで十分な価値を持っているとは思う。
 その上での話なんだけど、こう、良くも悪くも代替可能なんだよな。前年の1〜3月期から俺が癒しを求めて視聴した日常系作品で、かつ本作と同系統であると勝手に分類した作品を振り返ると、


 13年01〜03月期 『GJ部』『みなみけ ただいま
 13年04〜06月期 『ゆゆ式
 13年07〜09月期 『きんいろモザイク
 13年10〜12月期 『のんのんびより
 14年01〜03月期 『未確認で進行形


 といった作品群が挙げられる。どれも日常系好きならチェックしているだろうと思われるラインナップだ。
 で、特に印象に残ってるのが『きんモザ』>『のんのん』>『未確認』の流れ。どれも好きな作品で、終わってしまうのが寂しい気持ちはあったのだけど、すぐにまた良作が現れてその寂しさを補ってくれるというサイクルができていた(『ゆゆ式』はそこまで好きじゃなかった)。 終わるのが寂しいとは言っても、実際にこれら日常系作品が2クールやられていたら退屈していただろうから*1、代替物が寂しさを埋めてくれるのであれば、飽きがきにくい分そっちの方が良いのかもしれない。
 でも、一つの作品として見ようとした場合、「それでいいのか?」という気持ちが、『のんのん』>『未確認』という移行を体験したあたりから湧いてきた。


 日常系作品というと、癒すのが第一であり、新しさなどに挑戦した野心的な作品は求められていないし、目指されてもいない印象がある。『GJ部』『ゆゆ式』あたりは前の記事で書いたように、挑戦的な作品だったが、やはり例外的だ。それ以外の癖が強くない作品は、容易に他の癒し系日常系作品と交換できてしまう。「なんだかなぁ」と思うわけだ。
 もちろん今のアニメ界の流れ的、あるいは商業的には、アニメ化に際しておかしな原作改変を行わず、二期が可能な形で終わらせ、ストックが溜まり次第二期……というやり方が正義なのだろう。原作者もアニメ会社も声優さんなり他の関係者も、色んな人がそっちの方が良いと思ってるのだろうとは思う。
 でももっと、傷跡というか爪痕というか、心に残る寂しさなり切なさなりを刻み付けてもいいのではないか、という気持ちが膨らんできた。どこか物足りない気持ちが拭えない。
 そしてこの物足りなさは「二期」を見せられることではなく、「作品の終わり」を見せられることでしか埋められないのでは? そうしなければ、その作品がその作品たりえる「何か」を表現できないのではないか? と考えるわけだ。


 これは、「シリアスにしろ」と言ってるわけではない。「刺激が欲しけりゃ他のを見ろ」と言われそうだけど、そういうことでもない。「設定に見合った、あるべき終わりが見たい」という欲求だ。
 もちろん、その「終わり」は十分予想可能だったり自明だったりはするかもしれないし、原作未完作品でアニメが終わらせてしまうと、原作者は困るかもしれないが、それでもこう……何とかならんかなと思ってしまうわけだ。大抵の日常ものは「時間を進めた」時点で、卒業という終わりに向かってはいるのだけど、そこは必ずしも設定やテーマと密接に結びついてるとは言えないし……。
 うぅん、色々言ってるけど、要はキャラクター達が「キャッキャウフフ」してるだけで終わってほしくないってことになるのかな。やっぱり刺激やら深みやらを求めているのは否めないかもしれない。
 その点で言うと、今度アニメ化されるらしい『ばらかもん』なんかは、日常系でありながら田舎の過疎化というテーマに触れている節があり、今後の展開に期待してる作品である。


 最近は「難民」と言う言葉が流行っている。そのアニメが自身の日常の大きな支え、生活の一部になっていて、寂しさや切なさのあまり来週からどうしたらいいのかわからない空虚な気持ちに支配されているような人達を指しているようだ。「のんのん難民」と言えば『のんのん日和』が終わったことによりこうした状態に陥っているというわけだが、「難民」という言い方は逆説的に「代わりとなる受け入れ先があれば救済可能」であることをも意味しているし、それが可能であることも含んでいる。こうした状況でなければ流行ってない言葉だろう。
 避難先、あるいは受け入れ先があることは幸運かもしれないが、とある作品が終わる寂しさを他の代替物で埋めてしまえた時、「俺はこの作品を好きだと思ってたけど、べつにこれじゃなくても良かったんだな」と気付かされることは多少なりともショックなことかもしれない。


 自分の場合、そういう意味で『GJ部』に出会えたのは幸福だった。「すごい終わり方をした」なんて作品ではないのだが*2、代替不可能なくらい好きになれたからだ。二期はないのだろうけど、特番はあるらしく、これが本当に嬉しい。


  • こんな記事を書いていて気付いたのだけど、最近自分の中で、一期を見た作品の二期を見なくなったケースが増えている。日常系に限った話ではないし、アニメでなくても俺はよくそういうことするけど。「この作品のことはわかったからもういいや」と思うわけである。
  • アニメ化特需というのはあるとは思うが、自分としては代替物があることもあり、原作を買いたくなるレベルにまではいかないことがほとんどだ。
  • 今のような二期が当たり前の状況はいずれはなくなるんだろうけど、じゃあその後のスタイルってどんな感じになるのだろうというのは予想できない。
  • 最近はオリジナルアニメが強く希求されている気がするが、「ちゃんと終わりのあるものを見たい」というのも理由の一つと思われる。
  • そう言えば、『スケッチブック 〜full color's〜(2007)』最終話はクソ素晴らしかった。
  • そうは言っても作品によってできることとできないことはあるだろうが……。
    • きんモザ』や『のんのん』は設定的には可能性を感じさせる。
    • ひだまりスケッチ』はいいとこ行ってくれそうではあるけど、やっぱ「卒業」っていう終わりはその作品特有のものではなく時間進めた結果でしかないからなぁって感じてしまう。

*1:ARIA』2期は2クールだったのだが、ちょっと退屈していた

*2:そもそもメチャクチャカタルシスのある、傷跡を残せるような設定とかがなかったので仕方ない