新型日常系のジレンマ

 雑に導入を話す。
 神話や昔話から現代までに見られる創作物は圧倒的に「世界を救う話」とか、「全国大会優勝を目指す話」みたいな壮大で真剣でシリアスなものが主流だった。日常的なものを舞台にしたドラマティックでない話も昔からあったはずだけど、それは「ギャグ」だったり「ラブコメ」だったり、あるいはシリアスな話の合間や休憩として語られる横軸回だったりして、まだ「日常系」というジャンルではなく、「日常系」ほどに「何もない」話が志向されてはいなかった。
 おそらく、上記の非日常系のシリーズ間に挿入される横軸エピソードや、本筋から離れたところで平和的なギャグを繰り広げる同人チックな4コマ本*1のノリの方が本筋のシリアスなドラマよりも好きだという人が一定数存在し、そうした人たちによって徐々に日常系というものが志向、開拓されていったのだろう。ちなみに自分自身もそういう側の人間だった。
 「日常系」の先駆けは『あずまんが大王』あたりで、言葉として広く知れ渡り浸透しだしたのは05年〜。『ハルヒ』『けいおん!』『らき☆すた』『苺ましまろ』『みなみけ』『ひだまり』が出てきたあたり……部活はやるものの全国大会目指すでも恋愛するでもなく、萌え化が進んで女の子しか出てこないような作品が出てきた頃だろう。


 さて、これら「日常系」の根底にある思想の一つに、「世界とか救わなくても真剣勝負をしなくても、友達と普通にダベってるだけの何もない生活だって十分面白いじゃん」というものがあると思う。
 が、ここで一つの疑問に直面する。それは、「これら「日常系」が真の「日常」と呼べるのか?」ということだ。
 たとえば、『けいおん!』『らき☆すた』あたりの「日常系」は「何もない」とは言っても、日常生活の中では「ハレとケ」の「ハレ」……非日常をピックアップして描いていることも少なくなかった。すなわち、「体育祭」「文化祭」「修学旅行」「バレンタイン」「合宿」等々……のイベントごとである。授業受けて、飯食って、帰って……という本当に何事もない部分はカットされ、例外的な、小事件的な箇所だけを切り取って見せていることが多かったのではないか。作品によっては特に積極的にそれらのイベントに関わり、取り上げ、印象的な騒動となるシーンを見せてきた。それは作中キャラが来年再来年、はたまた五年後十年後になっても「あの時あんなことがあってさー」と話せそうなレベルの特別性を孕んだ「日常」なわけだ。
 「だからこういった作品は「日常系」とは呼べない」と言いたいわけではないが、こうした視点で見た場合、イベントごとが多い=「日常」の純度が低いと言えるのは間違いないだろう。だとすれば前述の思想……「何もない日常でも面白いじゃん楽しいじゃん」を十分に描いたことにはならないのではないか? という疑問がこれに続く。なにしろ「何かある日常」を描いているわけだから。


 「そんなことを気にする必要があるのか」と考えるのが普通だろう。ハレとケのケだけが日常ではない。行事だって日常の一部だ。作り手にしたってそんなことを気にせず、素直に自分の好きなものや楽しいと思うことを描こうとしている人の方が多数派だと思われる。
 が、ごく一部……そうした、「本当に何もない日常の面白さ」という主張を形として表現したい、証明したいという欲求を持つ創作者は存在しているのではないか。彼らは、できるかぎり自分の考える「日常」を舞台に勝負したいはずだ。その場合、そこから始まるのは従来の物語作品からイベントらしいイベントを極力そぎ落としていく方向への進化であり、さながらチキンレースである。


 そういった「日常性」にこだわりを持っているように見える作品が『GJ部』や『ゆゆ式』だ(実際はどうか知らない)。
 特に『GJ部』はわかりやすくイベントごと(文化祭)をカットしているし、卒業時も式の場面は描かず、部活内での卒業を描くに留めている。「部活動」のみの描写にこだわっているという理由もあるかもしれないが、印象的であるはずの新入部員捕縛(出会い)シーンも省かれているレベルだ。『ゆゆ式』も最後こそ海に行ったものの、その行動半径は狭く、毎回必ず部活シーンを描くことで日常性を強調している。同じ「日常系」でも他の作品とは方向性が異なっていると言えるだろう。


 しかし、この進化の道筋は袋小路気味なのではないかという心配がなくもない。
 「日常」というものにストイックにこだわるあまり、やれば鉄板で面白いイベントごとを避けたり、事故的・印象的な出来事を避けたりするというのは、端的に「面白い」ことを避けているのとニアイコールであると思うからだ。誤解をおそれず極端な言い方をすれば、「よりつまらない」方向に進化しているとも言える。先ほど「チキンレース」と言った理由はこれである。


 「イベントごとを描かなくても面白くすることは可能では?」と考える人もいるかもしれない。
 たしかにイベントごとを描かない縛りでも、そこで行われるやり取りさえ面白ければ「面白い作品」にすることは可能だろう。が、そのために話を作り込み過ぎると、一連の流れがコントか漫才かというレベルにまで達し、「ネタ」になってしまう。そうすると「日常感」が薄れてしまうばかりでなく、「その作品orキャラだから面白い」「日常ではなくそのネタが面白い」という話になる。つまり「ギャグ」に寄ってしまうわけである。実際この傾向が強い『みなみけ』はギャグ作品と言ってしまってもいいのではと思うくらいだし、実際そっちにカテゴライズしている人も少なくないだろう。
 『ゆゆ式』の場合はそこを考慮して、あえてつまらない会話劇を繰り広げているのではないかという気もする。その結果として、内輪ウケのようなことを多く起こしているのではないか。作者は「ポテトという言葉が土曜日っぽい」なんていう会話で受け手を直接的に笑わせたいのではなく、笑いに関しては素人レベルの女子高生の会話のつまらなさを表現したいとか、会話のしょーもなさでくすりとさせたいのだと考えた方が自然だ。


 本来「日常系」の需要というものは「笑い」よりむしろ「癒し」だったり「幸福の再発見」的な部分にあることが多いだろうから、会話のやり取りがつまらない=駄作とはならないところが救いのような気もするが、上記のようなこだわりを持っていた場合、イベントもダメ、ギャグになるのもダメとなってしまうためずいぶん苦しいのではないかと邪推して心配してしまう。これまで「日常系」は「こんな話だれにでも描ける」的な扱いを受けがちだったが、「何もない」ことを「面白く」描くというのは本当はとても難しいことで、「日常の面白さを見せる」ためには虎穴に入るような覚悟を持って臨まなければならないのではないかと思わせられる。上記に挙げた二作品は、つまらないという意見が少なくないかもしれないが、間違いなく新境地に「挑戦」した作品であると思う。
 結局のところ、「日常」を魅力的に見せるには作り手がどんな「日常観」を持っているかによるわけで、「イベントごとを削る」という行為はそれを効果的に表現しようとした結果にすぎないわけだが、あえてつまらない方向へ進むという進化がなかなか斬新に思えて興味深かった。これから先どのような「日常系」が出てくるのか、楽しみである。

補足

★……というたったこれだけのことをまとめることが上手くできなくて、二か月くらい書けずに悩んでた。


★もう少し踏み込む形になるが、『ゆゆ式』の日常描写へのこだわりについて「イベントごと」ではなく別の点からも取り上げておきたい。「天気」だ。
 『ゆゆ式』では、物語作品内において通常意味のある時にしか降らない「雨」を、意味を持たせず降らせている*2。「雨」というのは普通なら暗いシーンや落ち込んだキャラの感情に合わせる演出だったり、物語の脚本上必要になったりした時にしか降らないものなのに、『ゆゆ式』は雨を降らせておいて、雨の日の話をやらない。一言二言触れるだけである。これも現実世界の人間が暮らす「日常」というものを強く意識した作劇だと思われる。現実世界では人の感情などとは無関係に雨が降るからだ。


★直近では(ギャグ作品だが)『鬼灯の冷徹』第1-2話「地獄不思議発見」が興味深い。後半丸々延々鬼灯と閻魔が食堂で飯食いながらだべってるだけである。二人の雑談をノーカットでお届けすることに何らかの使命を感じているかのような構成だ。たぶんノーカットでだらだら話してるありのままの「日常」を描きたかったのだと思う。キャラの素を表現する手段としても効果的かも。


★現在の京アニテイストのような「日常系」が認知される以前の「日常系」は、「何もない日常の方が楽しい」というより、「何もない日常は一見つまらないけど、実は目を凝らせば素敵なものがたくさんある。だから楽しい」という、『ARIA』的な作品を指していたのではないか。それが、『らき☆すた』内で指摘があったツンデレ論のように、意味の変遷を遂げたのかもしれない。
 ちなみにミステリにおける「日常系」……「日常の謎」が出てきたのは北村薫『空飛ぶ馬(1989)』以降とされているが、これも本来は「日常の中にも見る人が見れば立派な謎が存在している」という意味合いのジャンルで、「普通の人なら見落としてしまう、謎でもなんでもないように見えるところにミステリがある」ところがポイントだったのに、現在では事件が「依頼」などの形で堂々と目の前に現れるようになっており、「日常の謎」は単に「軽犯罪を扱うミステリ」のようになっているので、これも初期とは意味が違うものになっている。
 つまり現在は、発見のカタルシスがないものまでカテゴリに入れられている。初期ツンデレだって、デレ人格は隠れていただけで最初から在ったものだろうからこれも「発見」のカタルシスがあったわけですよ。人の本性は第一印象だけではわからないっていうね。今のツンデレは≒ちょろインだし、かなり違うよね。



  • 文脈的に『GJ部』『ゆゆ式』はつまらなかったと言っているように誤解されるかもしれない。『GJ部』はすごく好きだった作品で、3、4回ほど見た。『ゆゆ式』は……まぁ、後半の印象は良くなった。
    • この手の作品はやっぱまだ「つまらない」という意見が多数派だと思う。「面白い」と言うのは一部の、好みに合致した人達*3だけだろう。でも最初は「日常系」自体も今ほどには受け入れられていなかったよなぁ。「こんな何もない作品の何が面白いのか」と言われていた。だからだんだんこういうのも評価されていくかも。
  • 不条理ギャグ漫画『日常』って、逆説的に、「私達の"日常"はこんなにおかしいです」というニュアンスですよね。
  • 男子高校生の日常』は、前に感想で言ったが、「理想の日常」であると思う。
  • けいおん!!(二期)』において、修学旅行に行った上級生組を描く回と、旅行に行かない下級生組を描く回とがあったのだが、これは「日常系」の中での「非日常」と「日常」と言えそうだし、「どちらが面白かったか」のアンケは興味ある。ちなみに俺は留守番した下級生組の回が好きだった。
    • しかし下級生回も厳密に言えば上級生がいないという非日常……! うぅ……「日常」って何? どこまでが「ニチジョウ」でどこからが「ヒニチジョウ」なの……? ワカラ……ない……くっ……うぅ……うわぁあああああああああああああああっっ!!!(なんかこれ前もやったな)
    • ちなみにこの回にも雨降ってるけど、セッションの後で陽が射すとか明らかに展開に合わせた演出やってるんでやっぱ作劇に合わせて天候変えられてる。

*1:ドラクエ4コマエニックス系や格ゲー4コマのゲーメスト

*2:第11話「こーゆー時間」

*3:あるいは最初我慢して、最後まで見た人達