2012年04〜06月期アニメ感想

 一期遅れのアニメ感想。
 作品少なめ、感想長め。たぶんこの期の感想はこの一記事で終わり。
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坂道のアポロン 第1巻 Blu-ray 【初回限定生産版】
 何度も何度も喧嘩するんだけど仲直りのきっかけはいつもジャズ。言葉の代わりに二人で演奏。というあたりが徹底されていて、ベタながら良い形だなと。ジャズってやたらアドリブ度の高い、感情に任せて演奏する音楽って感じなんで、なんだか物語作品とは相性良い気がする。筒井康隆の『ジャズ大名』とか。



這いよれ! ニャル子さん 1 (初回生産限定) [Blu-ray]
 ニャル子がまともに可愛いので宇宙人とか小さいことは気にせず結婚しちゃえばいいと思いました。
 つーか本作って主人公の真尋くんの方にツンデレっていう萌え的要素があるんだよね。ニャル子は好き好き大好き超愛してるのド直球。その真尋がデレることによってニャル子が笑顔になるのでそこでニヤニヤする感じの変な構造の萌えアニメ。間違っても真尋くんのデレる姿がかわいくてニヤニヤするのではない。



 一話の出来がかなり良かったのだが、その後はというと、世間でさんざ言われてたようにやや期待外れな出来であった。
 一番の問題は異物のニャル子を日常空間に落とさず、真尋の方を非日常空間に連れて行く形になっていたことだろう。
 みんなが期待していたのはたぶん一話のような、ニャル子という異物が真尋の日常空間に侵食してきてのスラップスティック
 「お前、あんな可愛い彼女がいたなんて許せねぇ!」「なに? 彼女じゃない? 一緒に住んでる? うぉおお!」みたいな。「ニャル子ちゃんって真尋くんとどういう関係? ええっ!? 一緒に住んでるっ? えっえっ? ってことは二人って……」みたいな。そんな感じだったはずだ。
 つまり、身内でキャッキャするだけでは不十分で、その他大勢の視線とか冷やかしとかが必要だった。宇宙行って悪い奴取り締まったり非日常体験してる場合じゃない。ホント、そういうのじゃないから……。


  • そんなだから余市や珠緒にはもっと別の使い方があったのではないかという気がしてならない。
  • 内輪話になりすぎてる。母親助けに行くくだりが一番良くなかったよなぁ。
  • だから中身入れ替わっての、「ニャル子! 好きだーーー!!!」は良かった。
  • クトゥルフ設定がネタレベルでしか活かされてないってのはべつに悪くなかったと思う。どうせ説明されてもよくわからないし。真面目に活かす方向もあったのかもしれないけど想像できん。
  • やたら作画が良かった印象。色設定とかもあわせて好みのタイプだった。


夏色キセキ 1【完全生産限定版】 [Blu-ray]
 3話で突然、夏海弟の友人のメガネ君の話になったので戸惑った。
 紗季の引っ越しがあってそれによる仲違いがあって、そこに不思議な御石様の存在が明らかにされたってだけの段階で、御石様の謎も解かれてないのに「秘密がバレそう」って話になるのはちょっと順番おかしい気がしたんだよね。しかもこんな初期で端役中心の話になっちゃうのかよと。
 そもそも最初の方、ちょっと話の方向性がわからなかったんだよな。
 もっと御石様の秘密を解こうとしたり引っ越しに抗おうとしたり、大きめの話やるかと思ってたのに単話で進んでくから肩すかしくったみたいな感じだった。
 でも本作はそういうことやらない。紗季の引っ越しは厳然として揺るぎなくあるもので変わることはないし、御石様もそういうものとして在るだけでその秘密を暴こうとか、それ利用してでかいことやろうとはしない。
 本作がやりたかったのは、体がくっついたり、人格が入れ替わったり、分裂したり、過去に行ったり、ループしたりという、なんでもありの不思議設定を利用した単話シチュエーションコメディだったわけだ。
 4、5、6話と見ていくうちにそれがわかってきて以降はなかなか面白く見れるようになった。こういう話は好きだし、各エピソードを通して友情育んだり関係性見直したりしてるところも良い。


 しかしやはり、Amazonレビュー*1にもあるように、売りや特性がハッキリしない作品だと思う。
 日常系でもキャラ萌えでも百合でもなく、一話のみだが色恋沙汰もあるので完全無菌でもなく、それほど青春というほどでもなく、ご当地アニメっぽく舞台に下田が設定されてるがその印象も弱い(下田よりローソンの方が押されてたくらいだ)。御石様も人間関係の修復や見直しに使われる程度で大きく劇的な変化があるわけでもない。
 それ自体はマイナスではないと思ってるし、むしろこうしたラインの作品は嫌いじゃないと思っているのだが、本作の場合、それでももう少し面白くできたんじゃないのかなーと言う気がしてならず、こうして書いてみると評価に困るなと感じた。やはり全体的に物足りないとか印象が薄いと感じていたのだろうか。
 とまれ、最終的には御石様の力をもってしてもオーディションには受からず、引っ越しもなくならず、そこで完成する本作のテーマ、「だけどだからダメなわけでも終わりなわけでもない。これからだってアイドル目指せるし、離れてもずっと友達」はなかなか良かったと思うし、各エピソードも楽しかったので好きな作品だったことに間違いはない。
 ただ今後「原作完」や「二期決定」の報を聞くこともないわけで、意識していないとすぐに忘れてしまうのでは? という危惧は拭えない。


モーレツ宇宙海賊 13 [DVD]
 かなり楽しみに見てた作品。


 物語作品には作品ごとに初期設定から想定される「器の大きさ」「作品の可能性」ってのがあると思うけど、それが「壮大」だったり「現実離れ」していたりすればするだけ納得のいく描写をして感情移入させるのが難しくなるわけですよ。だから俺はガンダムのようなマクロな作品では普通に地球で暮らしてる一般民衆とかを描くのって結構大事だと思うんです。いくら器が大きくて面白そうな作品でも中身を満たせなければ張子の虎になってしまうし、それだったら器小さくても中身満たされてる方がいい。
 で、本作の器ってそんなに大きくない。近未来だし、宇宙とか行くけど、「私掠船免状」とか出てきて海賊行為は「ショー」、つまり合法になってる。あまりでかいことが起こる下地ではない。
 だけどもそこにいくまでに日常描写しっかりやって5話くらいかけてるし地味な電子戦繰り広げてたりするわけで、要するに「地に足がついている」。これは、さほど大きくはない器だけど中身が満たされた、いわば作品の可能性を十分に引き出している作品と言える。もちろんこの手の作品だと「地味すぎる上に展開が遅い」と言われる危険性もあるわけで、そういう意味だと今風の作品ではないんだけど、本作は上手くいってた。まさにダークホース。前衛的なももクロのOPEDが「古臭さ対策」として活きていたのかもしれないがとにかく、こういう奇を衒っていない正道作品がちゃんと評価されているのは喜ばしいことだ。安心する。


 そしてその器の小ささも好みだったのだけど、要素的にも好みの描きだったな。キーワードとしては「信頼」? 実力を認められている快感だろうか。
 部内では特別でしゃばることもしないのに自然と目立っちゃって一目置かれてたり気付けばリーダーシップ発揮しちゃったりしてるし、一周りくらい年齢差のありそうなベテランプロの大人達にも信頼されていたりする。あと母親含む頼れる大人たちに気にかけられ見守られてる満足感や安心感ってのも心地良いんだけど……。
 この辺り『HUNTER×HUNTER』に酷似してると思うんだよね。ウイングしかり、ビスケしかり、挙げれば切りがないほど先を行く大人たちから好かれ、保護され、期待されてる。『史上最強の弟子ケンイチ』にも近いかな。そのうえ茉莉香は人並み外れた度胸と決断力でリーダーシップ発揮するわ大人も驚く作戦考えるわそのわりに謙虚だわと周囲の態度にも納得できる描写がされてるんだから気持ちよくならないわけがない。
 『第15話 密航出航大跳躍』で部のみんなと弁天丸動かそうとする茉莉香をクルー達が陰でサポートする話とか好きなエピソードだったな。あれってもう完全に「はじめてのおつかい」だ。





【図1】 思わぬスイーツパラダイスに夢心地のチアキさん。一人だけ度を越えた喜び様である。
 さらに本作には一風変わった縦軸が用意されていて、それが楽しみな作品でもあった。なにかというと「チアキちゃんの二面性描写」である。
 部の仲間たちからも弁天丸の仲間たちからも好かれ、信頼されている茉莉香だが、最も強烈に茉莉香を好いているのがチアキちゃんであって(遠藤マミという話もある)、本作一のヒロインでありいつもクールな彼女がデレたり、ハッチャけていたりすると視聴者はニヤニヤできる(※図1)。
 それだけならなんてことないが本作の場合そのデレっぷりが話の進行とともに徐々に強く表出されるという具合になっていて、後半に行くほどニヤニヤできるよう作られているのであった。「どぉだぁチアキ? だぁいすきなキャプテンとの旅は? 楽しかったか?」
 ところで公式サイトのトップ絵は作品構造がよくわかる素晴らしい絵だ。学園サイドでも海賊サイドでも常に茉莉香の傍にいられるチアキちゃん最強。劇場版とか楽しみだけど本当にあんのか?

咲−Saki− 阿知賀編 episode of side−A 第五局 [Blu-ray]
 基本的には頭空っぽで見れるネタ・萌えアニメだと思うけど、今回の『阿知賀編』は「主人公たち影薄い影薄い」と言われまくってたように変な問題が浮上してた話だったと思う。
 実際見ていてキャラ立ってないし、区別付きにくいなーって思うところはあったんだけど、これってそういう問題だけじゃなく、「トーナメント式バトルの描き方」の問題だと思われる。
 なんか、ドラゴンボールより続くトーナメント方式の描き方について考え、まとめなければいけないのではないか? とか思ってしまった。


 主人公「咲」のいるチームが全国出場を決めたところで視点を移し、もう一組の主人公チームを作ろうという試みは面白い。
 主人公たちに因縁のあるキャラというだけではなく、応援したくなるチームになるだろうし、咲たちと当たったときにどうなるのかという興味も湧いてくる。あくまでもう一組の主役であり、ただの「ライバル」ではないというのがポイントだ。
 ただやはり、咲のライバル候補には最強キャラと思しき姉がいる上に阿知賀がそれを押しのけるだけの格を備えているようには見えないため咬ませ&引き立て役の印象は強くなる。トーナメントで咲たちと別ブロック&姉と同ブロックになったことでそれはさらに増す。
 その昔エニックスから出た『DARK HALF』というSFCゲームがあり、それは勇者と魔王を交互にプレイしていき最終フェイズで決闘するという作品だったのだが、勇者と魔王の扱いが完全に平等だったためエンディングへの興味をそそられる作品だった。咲も視点を変えもう一人の主役を作るのなら、あからさまな最強&ラスボスキャラを作るべきではなかったのかもしれない。つまり、姉を少し弱そうに設定した上でもう一人の主人公にするとか、あるいは姉を咬ませにして阿知賀の方を成長させていくとか……。なんにせよこの「もう一人の主人公」構成にするなら決勝で清澄と「もう一方の主役」がぶつかり合う構成にした方が良いように思えてならない(まだその可能性もなくはないが)。


 トーナメントというものは最初こそワクワクするものの、少年誌にありがちな「どうせ主人公が勝つんだろ」感が強調されてしまい面白く描くのが難しい設定である。
 そこで『咲』は主人公チームではなく相手校にスポットを当て、回想やドラマを描いてから負けさせるという「負けのドラマ」で魅せている節がある。これは、現在チャンピオンで連載中の大食い部活もの『てんむす』も同じだ(現時点)。そうした見方をした場合、そもそも『阿知賀編』自体がその見せ方の延長にあるとも言える。というかおそらくそうだろう。最初から負けるよう設計されている。上の批判は的外れかもしれない。
 しかしだとすれば、本作『阿知賀編』の意義は何だろう。壮大な引き伸ばしにしか見えない気もする。


 よくよく目を向けてみればドラマ自体が薄い。のどかに会いたい動機も弱く見えるしそれは全員の動機ではないし「そこまでするか?」と共感しにくい上、途中で目的の半分は達成している。本来の主人公である咲たち自身にも大したドラマがあるようには思えないし、伏線張りまくってるわけでもないから物語が広がるとも思えない。大枠で見ると描くべきものが少なくジリ貧で苦しそうにも思える。
 それでも人気があり、楽しめていたのはやはりキャラものとしての見どころがあったからだろう。何が面白いのか説明困難だが、バトルシーンだって面白くないわけではない。
 トキとか、すばらさんとか、実況&プロ解説者とか、とにかくキャラクターで保っている作品って感じだ。逆に言えば、主人公なんて描かなくても、それらしい縦軸なんてなくても、延々脇役を立て続けていればいくらでも続けられる作品かもしれない。
 そもそも作者が「テニプリの男向けバージョン描こう……」くらいのことしか考えてない可能性もある。



うぽって!! Blu-ray 第5巻
 なんだか不思議な作品だった。
 言うに及ばず擬人化の扱いについてだ。
 人間として扱われている部分と銃として扱われている部分に法則性が感じられず、その場その場のノリでおいしい方が採用されてる感じで、そのあたり、どうにも据わりの悪さがあった。
 だって、体調の悪化は銃としての故障として扱われてるのに、戦闘では自分の指先や口から銃弾発射するわけじゃなく銃持って撃ち合ってるわけで、その辺りから「?」である。
 いや、揚げ足とって批判したいわけじゃない。揚げ足とって批判したいわけではないのだけど、見れば見るほど「?」が増えてきて目を瞑るのが難しくなっていった。


 銃の機種一つが一人の人間として具象化していて、それぞれの機種の特徴をネタとして扱い、時に優劣を競いながら学園生活を送っている様子なのだけど、同じシリーズでも違うバーションは姉妹として……つまり別人として扱われている。つまり、キャラに成長の余地がない。ダメな子扱いされていた「える(L85A1)」はいつまでたっても「L85A1」なわけで、どれだけ努力しようがスペックが上がることはないし、欠点は欠点のまま。姉妹がいれば、ほぼ必ず妹(後継機)の方が優れていることになる(これはロボットものでよく見る)。
 「学校」という空間内にいて他者と競う土壌や雰囲気があるにもかかわらず各キャラに成長の余地がないというのは考えてみれば残酷であると思う。


 あと擬人化というのは一種のファンタジーであると思うのでそこに本物の人間は登場させない方がいい。登場させれば世界観がパッと見で理解しがたくなり混乱を招いてしまうと思う……のだが、本作は視聴者と同調をはかるかのような普通の人間が用意されていた。
 そこは「異文化に驚かされる普通の人」を描きたくてそうしたのだろうし、それ自体は悪くはない気もするが、こと世界観整合性の点で言うとやはり、人間を置かず、人間世界とも関わりを持たない閉鎖空間内で話を進めた方が良かったのではないか。『やさいのようせい』みたいな。
 いや、『アンパンマン』のように人間が存在する擬人化作品もあるが、あちらがカバオくんのようなキャラを置いて明らかなファンタジー世界であることを主張してるのに対し、こちらは現実の人間世界に擬人化銃が紛れてるような描写である。
 さらにキャラ造形についても一つ。本作では「本当は銃」設定なのに限りなく人間に近い造形で、人間と会話でき、人間を撃てて、人間同様食べたり飲んだり風呂入ったりでき、「銃」は「銃」として別に存在しているから「本当は銃」の「本当」のラインも曖昧だ。この在り様は『アンパンマン』と近いが、あちらは造形だけは人間ではないためまだ区別されていると言える。
 つまり、人間を混ぜるのがダメなのではなく、現実とファンタジーの「区別が明確でない」ことが根本的な問題なのだろう。本作の場合、普通の人間がいたとしても彼らにとって「銃人の存在が常識となっている世界」という描きにし、もっとはっきり「ファンタジーである」ことを打ち出していた方が良かったのかもしれない。


 と、そんなわけで本作は、擬人化ものにおいて世界設定に矛盾が生じないよう描くということの難しさを考えるきっかけになった。
 この感想書いてて『びんちょうタン』を思い出したけど、あれもちょっと「あれ?」って思っちゃうようなとこあったんだよな。あれは「備長炭的な特殊能力が使える人間」として理解すればいいのかもしれんけど。
 もっとこう、ギャグのみの軽い細切れネタ作品であればさほど気にせず楽しめたかもしれないし、余裕で目も瞑れたかもしれない。
 そもそもこの手の擬人化キャラって最初は軽い思い付きでストーリーより先にキャラが生まれるものだと思うし、そこから一つ二つのネタを作る分にはまだ整合性は保たれてるものだ。
 でもそれに設定や世界観を付け足して膨らませ、落としこんでいく段階になるといろいろ大変になってくるのだろう。そこの処理が、擬人化ものの一つのポイントであることは間違いない。